長岡外史とは

周防国都濃郡末武村(山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、明治11年(1878年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業。日清戦争では大島混成旅団の参謀、明治30年(1897年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。明治35年(1902年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。明治37年(1904年)からの日露戦争では大本営陸軍部参謀次長。明治41年(1908年)には軍務局長となり、翌年には陸軍中将に昇進。臨時軍用気球研究会の初代会長を兼務した。次いで第13、16師団長を務め、大正5年(1916年)には予備役となる。大正13年(1924年)の第15回衆議院議員総選挙で当選し、議員となる。昭和8年(1933年)、76歳で死去した。

新し物好きであり、新潟県高田(現在の上越市)の第13師団長時代、視察に訪れていたオーストリアの軍人レルヒ少佐が伝えたスキーを軍隊にはじめて導入した(これが日本スキー発祥と言われている)。また変わった所もあったようで「プロペラ髭」と呼ばれる長大な髭を蓄え、それを自慢したとされる。自慢の髭は最長で70cm弱にも達したという。

墓所は青山墓地。山口県下松市笠戸島の国民宿舎大城に外史を顕彰する外史公園があり、外史の銅像が建てられている。下松市内には「長岡外史顕彰会」があり、顕彰活動に取り組んでいる。関係文書マイクロフィルムは国立国会図書館に所蔵。